武士の家計簿4


2022.05.03




 これまでに述べてきたような苦しい家計の中にあって、さらに大きな出費をする機会があった。それは葬儀だ。
 信之が亡くなったときには809.5匁も葬儀費用がかかっている。香典で461匁が得られたが、それでも半分は自己負担だ。
 信之が死んだ翌月に祖母が亡くなっているが、息子と母親が全くの同時期に無くなっているのも奇縁だとはいえ、この時の葬儀費用が751匁に対して香典は549匁で自己負担は4分の1ほどで済んだ。しかし、2ヶ月に2回も葬儀を出す羽目になったわけで、その負担は大変なものであったことがわかる。
 祖母の葬儀費用について、香典が多いのは、なぜかはわからないが妻の実家が香典を500匁も出してくれたという通常ではあり得ないことがあったからなのだ。もし妻の実家が他の人と同様に僅かしか香典を出してくれなかったら、2ヶ月に2回も葬儀を出すという負担には耐えきれなかった可能性がある。
 3年後には母が亡くなったのだが、この時の葬儀費用は647匁。香典は135匁でしか無かった。恐らく女であることと、幕末と言うことから、武士の先行きに不安を覚えたからだろう。みんな香典にまわす費用を控えたものらしく、8割が自己負担と言うことになり、猪山家の家計に及ぼす影響も大きかったことが予想される。何しろ年間収入の4分の1ほども葬儀費用に使っていることになるのだから。
 しかも、葬儀が行われると、葬儀費用だけでは済まない。信之の例だけでも、葬儀の後、百箇日回向と茶の湯の費用12匁。1周忌の法事に238匁。3周忌の法事に119匁。と言った具合に出費が延々と続く。

 結婚については、家計簿の期間中に猪山家では2回の婚礼が行われている。1回目は成之の嫁取り、2回目は成之の妹の嫁入りである。
 成之は賢い子であったらしく、11歳から御算用場の雇いとして役所に出勤し始めた。雇いは見習いだから無給に近いが、数年以内に「御算用者に召し出され切米40俵」を給与されるのが普通であった。
 成之が御算用者に正式採用され、切り米40俵を与えられたのは、安政4年で13歳であった。この吉事には銀456匁をかけて盛大に祝っている。
 成之に結婚に向けた動きが見られるのは、俸禄をもらい始めて4年が過ぎた17歳の頃である。文久元年(1861)の8月に増田、竹中、西永などの近い親戚が猪山家に集まって会食をした。成之の妻になるお政の名前が、ここで初めて登場する。
 成之とお政は幼児の頃から知っていた。2人はいとこ同士だったからで、成之にとってお政は父の実兄の次女に当たる。それがどのような経緯でいとこ結婚になったのかはわからない。ただ、8月29日にお政が猪山家を訪問する機会が意図的にセットされたのは間違いがない。
 この日の主役は彼女であり、帰り際には、彼女にだけ「鯛・きす・かます」がセットになった豪華なお土産が渡されている。そして、12月13日には縁組(結納)を取り結んでいる。
 猪山と増田の家族13人は向き合って座り、結納を交わしている。小鯛の料理がでて銀10匁5分と銭1703文を費やしている。結納金の金額については記述が無い。
 この後お政は飴とおこしを持って泊まりに来た。途中でお政の父親や叔母が心配をして様子をうかがいに来ていたが、この結婚お試し期間はうまくいったらしい。
 そして婚礼道具をそろえて、4月14日にお政は猪山家に移ってきた。成之の18歳の誕生日の翌日である。
 披露宴が行われたのは、それから7日後であった。料理70人前を大野屋に用意させているから盛大であったようだ。
 儀式自体の費用は57匁と2890文であったが、会食費は70人前の料理に390匁を使っている。武士が百姓から集めた年貢で潤っていたのは、料理屋と寺の僧侶であったと言って差し支えが無い。
 こうして成之とお政はめでたく結婚をした。


 幕末から明治になると、直之の息子の成之は加賀藩の御算用者から新政府の兵部省(後に海軍省)に鞍替えすることになる。
 新政府にとって金沢は元が加賀百万石なだけに膨大な数の士族がいて、薩長と対立していた。政府に不満を抱くものは、加賀藩に限らず全国にいた。その中の一つが西南戦争を引き起こした西郷隆盛を首班にした九州の士族による政府への反抗だが、加賀藩もそうした士族による不満のミまりがあった。もちろん、九州や加賀藩だけでは無く、禄を削られた士族が失業者として全国にあふれていて、日本中に不満の種がくすぶっていたのだ。
 直之は金沢で、不満の要因を目撃することになる。
 明治5年に直之は河原相撲を見に行ったのだが、ここで直之は相撲見物人の荷物を預かる雑役夫の中に「士族打ち交じり居り」という以前には絶対にあり得ない光景を目撃したのだ。
 士族は上から特権を奪われる前に、自分から庶民に成り下がっている。直之はそう感じた。さらに、8月になると、相撲が行われた犀川で「下民同様に、夏中、犀川橋詰めにトウキビを焼きドジョウを焼きうる士族」が現れたのである。まだ、士族の俸禄は支給されてはいたが、それでは生活が成り立たないので食べていくことができない。このために、お金になることなら何でもやらざるを得なくなったのだと思われる。もう、武士の体面も何もあったものでは無いという状態になっていたようだ。
 中には武士の体面を最優先した結果飢え死にした人もいるのだが、そうした人は例外で、殆どの人は武士の体面よりも生きていくことの方を優先した。
 また、江戸時代乗馬で町を優先的に通行できるのは、上級武士の特権であった。猪山家も武士とは言え、乗馬で町を走り抜けることなどできなかった。
 所が、明治5年になると、「士族体の者には一切見受けざる」者が乗馬姿で町中を通り抜ける様子が見られるようになったのだ。
 さらに大きな問題が士族たちに降りかかってきた。時代が変わったのだから町人に無視されるのは仕方が無いとしても、直之のような元士族の心を傷つけたのは、県庁の官吏による無視であった。
 県の参事などは「我ら如き者逢い申し候ても、言を出すべき端も、これ無き勢い」であり、県の大属でも「矢張り同様」であった。旧藩主の側近で藩政の中枢にいた直之にはこれがこたえた。
 藩政の時代には、武士であると言うだけで、役職は無かったとしても、それなりの処遇は受けられたし、生存も保証されていた。それが、今ではそれなりの処遇を得るには士族と言うだけではだめになってしまったのだ。
 直之は、「窮するときは、十四等にても五等(役所に出仕)にても、今日喰いさえすればよい」「ドジョウを焼き売り居る士族もこれ有り候あいだ十四等位は上品と申すもの、上も下も申すに語ることなし」と言う士族の悲鳴を聞いている。
 こうした不満が暴発したのが西南戦争なのだが、西南戦争の終結後に新政府は士族に対する不満を和らげようとは考えずに、天皇を持ち出してきて天皇制を作り、ヨーロッパの王室制度をまねて皇室典範を作った。そして、天皇や公家たちに権威を与えることで士族の不満を抑えるという方法を採ったのだ。
 要するに、新政府のやっていることは天皇の思し召しによるものなのであって、新政府の関係者が勝手にやっていることでは無いのだ、と言うわけなのだ。典型的な責任逃れだが、これが純朴な士族をなだめるために功を奏することになる。
 もう一度西南戦争と同じ規模の反乱が起こったら、新政府は持たないと大久保等は危機感を強めたのだが、新政府による天皇プロパガンダが効果を発揮し、この後の士族による反乱は収まり、明治政府の重鎮であった大久保利通の暗殺が最後の士族の反抗となった。
 しかし、この無責任体制が軍部の暴走を招き、最終的には太平洋戦争に突入していった。そして、日本という占領されたことの無かった国がGHQという占領軍の支配下に置かれるという屈辱的な事態を味わうことになるのだ。

 猪山家の親戚たちを見る限り、明治以降士族たちは様々な道を歩んだことがわかる。
 確実に言えるのは、官員として出仕できた士族とできなかった士族では収入と生活に天地ほどの差が出たことだ。
 明治7年に海軍省出納課長となった猪山成之の場合は、年収1235円。これに対して金沢製紙会社雑務係となった西永常三郎の年収は48円であった。
 明治7年の大工の賃金水準から計算すると、1円は約3万円ほどに当たる。
 海軍に出仕することができた猪山家は、今の感覚では3600万円もの年収を得ることができたのだが、官吏になれなかった西永常三郎の年収は僅か150万円ほどでしか無い。
 新政府を樹立した人々は、お手盛りで超高給をもらう仕組みを作って、武家がもらっていたお金を我が物にし、とほうもない利益を得ることができていたのだ。
 海軍の出納課長となった猪山成之でさえ3600万円ももらうことができたのである。当時海軍卿だった勝海舟は一体どれほどの年収を得ていたことだろう。彼が、たくさんのお妾を作り、たくさんの子供に囲まれ続けることができた理由がわかろうというものだ。
 官僚が税金から自分たちの利益を得るために、好き勝手に制度を作り、それに対して国民が何も言えないというこの国の病理が、この頃に始まっていて、それが今も続いている。









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