武士の家計簿3


2022.04.03




 これほどまでに猪山家の財政事情が逼迫してしまったのはなぜなのか。
 武士の家計というのは、収入よりも支出の方が多くなる傾向があった。
 武士の家計は、浪費を止められない構造が社会的にできあがっていた。
 西川俊作慶応大学名誉教授によると、天保の頃の長州藩では国内総生産に対する年貢の割合は25%であるという。この数字は意外に少ないと思う人が多いのでは無いだろうか。時代劇などでは、多額の年貢によって苦しむ百姓の姿があたりまえのように描かれているからだが、25%ならばそれほどの過重なものという感じはしない。
 長州藩では25%かも知れないが、だいたい25から50%の間で各藩が年貢を徴収していたことから、国内生産の多くを、僅かしかいない武士が消費していたことは間違いがない。
 そこで猪山家の家計簿から、俸禄の使い道を見てみることにする。
 猪山家の家計簿の天保14年12月27日を例示すると、
四両壱分@ 直之暮れ拝領金
     一両A  銭買い上げ
     代六貫四拾文
同日
三百目B  御鎮守御貸渡銀
 三百目C 先達て役所向より借用分返済

 これは直之が暮れの拝領金を四両壱分支給された@
 すぐさま支給された分から1両分を銭六貫四拾文に両替した。A
 同日に、御鎮守御貸渡銀という基金から銀三百匁を借りてB
 先達て役所向より借りた三百匁を返済したC

 家計収支を見ると、猪山家の家計は黒字に見えるのだが、全く経済的な余裕などみじんも無いことがわかる。
 家計を圧迫していたのは、借金の支払いや頼母子講への出銀などの金融的経費だった。これが総支出の3分の1にもなっていた。
 猪山家では借金の支払いに必死になって対応しているが、一方で新規借入銀が七百七十四匁できている。しかも、資金繰りに困って信之の脇差し1本を銀百五十匁で同僚に売り払っているのである。
 猪山家の家計簿を見ると、衣料費が殆ど計上されていない。前年の借金整理で殆どのものを売り払い、着るものが無くなっていると思われるのに、新しい衣服を買った形跡が無い。
 衣料費は徹底して圧縮されていながら、全く圧縮されていない項目がある。祝儀交際費や儀礼行事入用である。
 武士と百姓の家計を比べたときに、最も違いが現れるのが交際費である。武士の家計では交際費の比率がずば抜けて高い。猪山家の場合、祝儀交際費が消費支出の11.8%になる。生活必需品以外の支出としては家族配分に次いで多い。また、厳しい家計事情であるにもかかわらず武士らしい儀礼については親類を集めて必ず執り行い、食前にはなけなしのお金で買った鯛がのっている。
 家計簿から試算してみると、猪山家の家族6人が最低の生活を送るだけなら、銀千匁もあれば良いことがわかる。家来や下女は雇わない。家族が食べるだけの米と薪や炭といった最低限度の日用品を買うだけであれば千匁で足りるのだ。これにもう少し文化的な生活をと言うことになると、銀五百匁が必要である。銀五百匁で医療費や教養娯楽にお金が使えることになる。しかし、実際の猪山家では、二千三百匁以上の消費がなされている。この異常とも言える支出は、猪山家の生活を良くするためのものでは無い。猪山家が武士としての体面を保つために強いられる費用なのだ。召使いを雇う費用。親類や同僚と交際する費用。武家らしい儀礼行事入用。さらに先祖や神仏を祭る費用。これは制度的、慣習的、文化的な強制によって支出を強いられる費用なのだ。
 現代人からしたら無駄としか思えないのだが、この費用を支出しないと江戸時代の武家社会からははじき出されて生きていけなくなる。
 要するに、身分を守るために生じる費用であり、止めたくても止めるわけには行かないものなのだ。
 逆に、その身分でいることによって得られる収入や利益もある。
 武士が窮乏化したのは、この身分を守るための費用が一因になっていた。百姓からの年貢米もこの費用にかなり費やされていたことは間違いがない。
 猪山家の場合、身分を守るための費用は銀八百匁にものぼる。家来の俸給と食費、祝儀交際費、儀礼行事入用、寺社祭祀費を合算すると、これほどのものになる。これは消費全体の3分の1になる。なかでも祝儀交際費が多い。祝儀交際費の総額は二百八十四匁であるが、そのうち六十五匁は親戚とのつきあい。25%が家中の同僚との交際に使われていた。そのほかに町方4.8%知行所2.3%を大きく引き離している。
 武士同士の交際にも費用がかさんだ。葬儀は11回もつきあって五十一匁を支出。病気見舞いは8回で十八匁を支出している。ただ、婚礼への支出は現代と比べるとさほどでも無く、十五匁しか支出していない。それよりも大きな支出は通過儀礼であった。
 武家社会では、男子の通過儀礼が親族関係を確認するに当たって重要であった。この年には信之の孫2人が「着袴」の儀式を行っているが、猪山家は18〜19匁もの祝儀を紅白の水引をつけて送った上に雄と雌の一対の鯛まで用意している。また、跡目や本知といった家督相続の祝儀もあったし、江戸から帰着したと言えば、お祝いを贈りあう習わしになっていた。
 このようなことは猪山家に限ったことでは無い。江戸時代の武家は、数日おきに親類縁者が訪問して、そのたびに交際費が出ていくという状態にあったのである。親戚で婚礼があれば、相場の祝儀を出さなければならない。結局、武家が儀礼行事を行い、それに親類縁者が関与する制度・慣習・文化が祝儀交際費を肥大化させ、いくら借金があっても儀礼を廃止するわけにはいかない。親戚や同僚の手前があって、個人ではどうすることもできなかったのだ。
 武士の親族関係は格式禄高の似通った傍輩の間で形成されていることが多い。猪山家は御算用者であるから、親戚を集めると御算用者だらけである。江戸時代は平均寿命が短い。当主が早死にして幼い遺児が家督を継ぐ。そんな時、武士の世界で生きていけるように男の作法、役所のしきたりを伝授するのは伯父などの親戚たちであった。
 何よりも、武家社会には「連座制」と言うものが存在したから、親戚は運命共同体にならざるをえなかった。婚期・養子で形成される武士の親戚関係は「一類附帳(つけちょう)」によって藩庁に公式に届けられ、少なくともいとこまでの範囲がきっちりと把握されていた。そうした中で親族の誰かが不始末をしでかすと、親類全体に累が及び「差し控え(謹慎)」等の処分が下る。
 親類の悪しき挙動が自分の運命に直結するために、親族同士がお互いの状況をよく知っていなければならない。だから、頻繁な行き来や年中行事を通じて、親類とのコミュニケーションを図らなければならなかったのだ。
 さらに、親族関係は武士の家の運命をも決めるものであった。もし、子供が生まれないとか生まれても女の子ばかりと言うことになると、養子を取らなければならない。何かあったときに藩庁との間を取り持って「御家大事」に奔走してくれるのも親族であった。
 男子単独相続性では、1人の男子が生家に残って跡を継ぐ。男子がいない場合には親族を頼って養子を探さなければならない。逆に、男の子が2人以上いる場合にも親族を頼って次男三男の養子先を見つけなければならない。
 連座制にしても縁組みにしても親族関係が武士の一生を左右する大きなファクターになっていたので、親族に多額の交際費が使われていたのは当然であった。盛んに行われる儀礼や年中行事も、親戚同士の交流を深め、結合を強める機能を果たしていたのである。
 しかしながら、こうした武士としての体面を保つためや親戚同士の濃厚な絆を維持するために使われるお金によって、一見したところ武士は裕福な暮らしをしているかのように見えるのだが、実態は、過大なまでの出費を余儀なくされていたわけで、彼ら自身を守るための様々な思惑やしがらみが彼ら自身を借金地獄に引き込んでしまうと言う裏腹の結果を作り出していたとも言えるのだ。
 明治になると、各地の大名たちがいとも簡単に城を手放して、明治政府の意向に沿ってみんなたいした不満を見せないまま驚くほど素直に東京に出てきてしまったのは、大名たちは猪山家のような下っ端の侍とは比較にならないほどの様々な儀礼や社交、参勤交代といったものに莫大なお金を費やし、借金まみれになっていたわけで、大名であることを辞めて伯爵や子爵と言った貴族になれば、借金まみれから解放されるだけではない。国から多額のお金をもらって安楽に暮らせると言われたら、三百年近くも続いた歴史ある公権力の象徴でもあった大名の地位を捨てることに未練は無かったものと思われる。それほどまでに大名から足軽まで、その全てが武士の体面を保つのは大変だったと言うことでもあるのだ。







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