武士の家計簿




2021.11.03.




「武士の家計簿」と言う本を読んだ。
 江戸時代の武士というものはお金持ちというイメージを持っている人が多いとは思うが、一方で「武士は食わねど高楊枝」という言葉もある。ある程度の頭の人であれば、江戸時代は大名ですら多額の借金を商人からしていたと言うことは知っているはず。
 いったい武士というものはお金があったのかなかったのか、その答えの一端がわかる書物だ。
 金沢藩士であった猪山家の古文書が古書店で売られているのを作者が知って、その古文書を作者が購入したことからこの話が始まっている。
 この古文書は猪山家が江戸時代から明治時代まで代々つけていた家計簿が主なものなので、しかも、細かく詳細に書かれていることから、少なくとも猪山家のような下級武士の生活がどのようなものであったのかは極めて良くわかるし、武士というものがどのような生活をしていたのかもよくわかるというものだ。
 図書館に行くと「先祖由緒ひょう(元々の漢字が認識できないのでひらがなで表記)」というものがあって、かつて藩士だった人の家ごとの履歴書と呼べるものが保管されている、と言うことなのだが、そこには猪山家の履歴書類もある。これを読むと、猪山家は加賀藩の「御算用者」であったことがわかった。
 御算用者とは、加賀百万石の算盤(そろばん)係である。今風に言えば、会計処理の専門家であり、経理のプロであると言って良い。
 代々、猪山家は会計処理の実務によって前田家に仕えてきた。プロがつけた帳簿なので、自宅の私的な家計簿であっても完成度が高いのは当然と言える。
 これまでに猪山家のような会計のプロが書いた古文書が発見された例は殆ど無いのだが。後世の散逸のためばかりでは無く、はじめから作成されていなかった可能性が高い。猪山家のように特に優れた会計技術を持っているとか、借金が重なって家計管理が必要になったとか、特別な事情が無い限り、武士は一般にどんぶり勘定であった可能性も考えられる。
 そもそも猪山家とはどのような家なのか。加賀藩の御算用者になる前はなにをしていたのか。
 猪山家の家計簿は、天保13年(1842)から始まっている。
 明治3年9月に猪山家9代目の左内成之(なりゆき)が記した由緒ひょう(元々の漢字が認識できないのでひらがなで表記)によると、猪山家の歴史は猪山清左衛門という人物から始まっている。この初代が死んだのが慶長10年(1605)と言うことから、御用算者の由緒としてはとても古い。藩祖である利家の時代から加賀で侍をしていたことになる。
 ただ、最初から前田家の直参では無かった。当初、猪山家は前田家の直臣ではなく、陪臣であったのだ。つまり、家来の家来だったのだ。当時、前田家は120万石を領する大藩であったから、上級の家臣ともなれば、知行千石以上という高禄の者も少なくなかった。猪山家が仕えていたのもそういう大身の武士であった。菊池右衛門という千石取りの加賀藩士に仕えていたのであるが、菊池家では給人であったということから、知行地(領地)を分け与えられていたようである。しかし、その時分の猪山家の禄高は微々たるものであった。千石取りの給人の俸禄など、せいぜい30石か50石である。初代清左衛門の後も猪山家は菊池家に代々仕え、十兵衛、伝兵衛、豊祐(とよすけ)、市進(いちのしん)、と続いている。
 菊池家のような千石取りの武士は小さくても領主である。米が千石とれる土地には、普通、500から1000人の領民が居るから行政というものが必要になる。家老の他に用人という執事を置いて実務を任せた。猪山家もそのような役目であり、代々菊池家に仕えて家政を司っていたのである。このような陪臣は武士とは言いながら、その暮らしぶりは妻帯や家族形成もおぼつかないほどに質素なものであった。三代目の伝兵衛は、一生独身であり、同じ陪臣身分の者から養子の豊祐をとってようやく家の存続を図っているという有様であった。
 猪山家に転機が訪れたのは、五代目の市進のときである。享保16年(1731)に前田家の直参になったのだ。「御算用者」としての採用であった。御算用者になるには「筆算」の才がいる。つまり、筆と算盤に優れていなければならない。猪山家は菊池家の家政を司っていたので、算盤をはじき帳簿をつける。「およそ武士からぬワザ」を磨いており、これが幸いしたのである。
 江戸時代の武士社会は、行政組織として問題を抱えていた。行政に不可欠な「算術」のできる人材が不足しがちであったからだ。
 武士、特に上級武士は算術を賤しいものと考える傾向があったために、算術に熱心などころか学ばない方が良いと考えられていた。算盤勘定などは、武芸とは対極にあるものなので、徳を失わせる小人のワザであると考えられていたからだ。
 武士の世界は世襲であったが、算術は世襲に向かない。囲碁や将棋と同じで個人の才能が如実に表れるものだからだ。囲碁や将棋の名人の子が名人かと言えばそうでもないのと同じで、親が算術が得意でもその子が得意とは限らない。このために藩の行政機関は算盤の関わる職種だけは、身分と世襲の例外になっていた。御算用者も世襲ではあったのだが、家中の内外から人材をリクルートしていたし、算術に優れた者が養子の形で入ってきていた。
 
 加賀藩の御算用者となった猪山家は、明治維新まで五代にわたって前田家に仕えた。
 市進のあとは、綏之(やすゆき)、金蔵信之、弥左衛門直之、左内成之と続いたが俸禄は少なかった。市進が得たのは「切米40俵」であった。わずか40俵では、金沢で武士家族が暮らして行くにはぎりぎりの収入であった。ただ、幸運なことに頭脳明晰な子が2人も生まれた。2人の子は頭脳明晰であったために2人とも御算用者に採用され、父と共に切米40俵を支給されるようになった。
 猪山家の家計簿を残したのは、猪山左内の一族だった。猪山左内綏之は市進の次男であり、父親や兄と同じく御算用者になった。母は「由緒御座無く」と書かれていることから、武士の娘では無かったようである。普通、武士は武士の娘を娶るものだが、猪山家のような下級武士は、百姓や町人階級から娘を娶ると言うことがあったようなのだ。
 綏之は、明和7年に御算用場のお雇いとして見習いを始めたが、翌年には御算用者に正式採用され、父と同じ切米40俵を給与されている。そして、天命2年(1782)には隠居した前藩主前田重教の「御次執筆」に抜擢されている。重教の居室に隣接した「御次の間」に控えて御用を聞き帳簿をつける役目である。武士の世界では、藩主に近ければ近いほど羨望の目で見られたから、この役目は花形であった。
 綏之には娘はいたが、男子は無かったので婿養子を取っている。これが七代目の金蔵信之である。
 信之は、「篠原故監物家来給人、藤井故平丞四男」とあることから陪臣の倅であった。
 信之の人生が変わったのは文政4年(1821)9月、46歳の時に、会所棟取役・買手役兼帯となり、藩用の物品購入を引き受けることになったのである。まさに、加賀百万石の買い物係になったのだ。こうしたことから江戸に詰めることになり、出費がかさんだ。江戸詰は金がかかる。
 藩士にとって江戸詰は経済的に大きな負担であるから、江戸詰にはしばしば俸給を加増した。
 信之も「江戸表において会所御用等、入情相勤候旨にて、拾俵御加増」となっている。これで信之の俸給は切米50俵となったが、その翌年には金沢に戻っている。しかし、文政10年(1827)3月、再び江戸出府を命じられた。
 このときに信之が命じられたのは「御住居向買手方御用ならびに御婚礼方御用主付」と言う名前の役目だった。
 東京大学に赤門がある。赤門というのは俗称であり、正式には「御守殿門」という。信之が仰せつかった役目というのは、本郷に赤門を出現させた婚礼の準備係だった。赤門は、藩主前田斉泰が将軍家斉の娘溶姫を妻に迎える時に作られた。将軍家斉の娘との婚礼は一大事業である。華麗な御殿を新たに作り、調度品も調達しなければならないし、祝儀の贈答もあった。
 信之が仰せつかったのは、婚儀に関わる物品購入を一手に引き受ける仕事である。加賀藩自体が財政逼迫で苦しんでいるさなかに将軍家との婚儀はいかなる犠牲を払ってでも成功させなければならなかった。
 しかし、苦労の甲斐があって、婚礼が一段落すると褒美の沙汰があった。「小判7両」という大金を拝領している。さらに、10月には「数年役儀入情相勤候旨にて新知七拾石」という沙汰が下った。これは領地を分け与えるという沙汰であり、滅多にあることでは無い。
 武士には2種類の俸給があり、1つは主君から領地を分与された「知行取り」。もう1つは米俵や金銀で俸禄を支給される「無足(むそく)」である。むろん、領地を分与された知行取りの方が格式が高く、米俵や金銀で俸禄を支給される「無足」は格下とされる。
 ただし、知行地を与えられたと言っても実体は無い。猪山家が70石の知行地を与えられたといっても、その土地に住むわけでも無ければ、見学に行くわけでも無い。
 江戸時代というのは、兵農分離が基本である。武士は城下に屋敷を拝領し、そこに常駐することが義務づけられ、許可無く農村に立ち入ることはできなかったからだ。
 知行が与えられると、藩主の花押が据えられた立派な証書が発行される。知行地の石高が記され、所在地が書かれているが、それだけのことでしか無い。
 本来武士が領地を支配するには、現地に出向いて農作業を励ましたり、事件や訴えがあった場合には処断、裁決しなければならない。さらに、田畑の状態を観察して年貢の取り高を決め、そして実際に年貢を取り立てる。
 時代劇では、このようなことを武士が行っていたりするが、現実にはこのような面倒なことはやっていられない。それではどうしていたのかというと、藩の官僚機構がこうしたことの全てを肩代わりしていたのだ。そしてその官僚機構こそ「御算用場」だったのである。 
 この方式だと領主は全く領民の顔を見ること無く年貢を得ることができる。猪山家にしても、知行石高に相応した年貢米を藩庫にもらいに行くだけで良いのだ。

注 切り米とは藩が軽輩の武士に与えた俸禄米、または金銭。春・夏・冬の3期に分けて支給された。

 長くなったので、続きは次回に。











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