糸女覚え書き




2021.6.24.


 このところ堅めの話題が続いたので、いくらか軟らかな話を。
 芥川龍之介の「糸女覚え書き」という作品を読んだのだが、今から400年前の細川家に仕えていた糸という娘の覚え書きと言うことのようだ。
 細川忠興の妻に仕えていた奥女中と言うことなので、おそらく、原本は筆と墨で書かれていて、崩し字なので現代の人間には読めないものを芥川龍之介が活字にし、現代人にも読める文章にしてくれたことで誰しもが読めるようになったということのようだ。
 読みながら思ったのは、400年前の娘も今の娘と考えていることが驚くほどに変わらないと言うことだった。
 自分が仕えている細川忠興の妻である秀林院殿、ガラシャと言った方がわかる人にはわかるだろうが、秀林院殿の振る舞いに対する不満や周辺にいる人々の振る舞いなどを書き連ねている。
 主人である秀林院殿に対する奥女中としての娘の不満や当てつけ、様々な日々の想いと言ったことが、いかにも娘らしい筆致で書かれていて、現代のスマホで娘達が好き勝手なことを書いているのと何も変わることはない。
 覚え書きとは言うが、これほどの豊かな表現と筆致を持った娘が学校もなく、男尊女卑の世の中で、女が勉学にいそしむなどと言うことは考えられなかった時代の400年も前にいたと言うことにも驚かされる。
 糸の書いた文章には、その当時の雰囲気や周辺にいる人々の思いなどが手に取るように伝わってくる。
 日記のような感じで書かれているが、これほどまでに利発で少々意地が悪いがとても賢い娘が安土桃山時代という遠い昔にいたのか、と言うのが読んだ印象だった。

「慶長五年七月十日、わたくし父魚屋《なや》清左衛門、大阪玉造《たまつくり》のお屋敷へ参り、「かなりや」十羽、秀林院様へ献上仕り候。秀林院様はよろづ南蛮渡りをお好み遊ばされ候間、おん悦《よろこ》び斜めならず、わたくしも面目を施し候。尤《もつと》も御所持の御什器のうちには贋物も数かず有之《これあり》、この「かなりや」ほど確かなる品は一つも御所持御座なく候。」
 慶長5年と言うことは、西暦にすると1600年と言うことになり、豊臣勢と徳川勢による天下分け目の関ヶ原の戦いの年と言うことでもあるのだが、この年の初夏に糸は父親と一緒に細川家に出向きカナリヤを主人に献上したと言うことのようだ。この本物であるカナリヤに対して、主人の持っている什器は偽物が多いなどと書いているわけで、何を根拠にと言いたくなるが、いつの時代でも娘というのはこうしたものなのだ。
 おそらく、細川家と言えども日常的に使用している什器類は高価なものではなく、高額な物を模したものを使っていたのだろう。それを贋作と言われたのでは立つ瀬がないが、書いた本人も誰にも見せるつもりなど無かった筈だから、目くじらを立てるほどのことでもない。

「十一日、澄見《ちようこん》と申す比丘尼、秀林院様へお目通り致し候。この比丘尼は唯今城内へも取り入り、中々きけ者のよしに候へども、以前は京の糸屋の後家にて、夫を六人も取り換へたるいたづら女とのことに御座候。」
 娘同士で、主人に対してお世辞ばかりを言って取り入っている年の行った尼を馬鹿にしているわけだが、こうしたことも今も普通にありそうなことだ。きけ者というのは、利け者と書き、気の利いた優れた才能があるというような意味だが…。
 更に続けて、今度は主人である秀林院のこともけなしている。

「秀林院様はさのみお嫌ひも遊ばされず、時には彼是《かれこれ》小半日もお話相手になさること有之、その度にわたくしども奥女中はいづれも難渋仕り候。これはまつたく秀林院様のお世辞を好まるる為に御座候。たとへば澄見は秀林院様に、「いつもお美しいことでおりやる。一定《いちぢやう》どこの殿御の目にも二十《はたち》あまりに見えようず」などと、まことしやかに御器量を褒め上げ候。なれども秀林院様の御器量はさのみ御美麗と申すほどにても無之、殊におん鼻はちと高すぎ、雀斑《そばかす》も少々お有りなされ候。のみならずお年は三十八ゆゑ、如何に夜目遠目とは申せ、二十あまりにはお見えなさらず候。」
 細川家の主人の妻に対しての会話ともなれば、このような見え透いたお世辞を言うのは当然で、このような誰しもが苦笑せざるを得ないようなお世辞を言ってまで取り入ろうとするからには必ず裏があるに相違ないのだが、糸という人を疑うことを知らない小娘には納得が出来なかったようだ。
 この5日後には秀林院は自害することになるのだが、糸は38歳と言っているけれども当時は数え年で言っていたからであって、現在の数え方で言うと37歳と云うことになるわけで、こんな若さでこの世を去ることになるとは、時代が時代だとは言え哀れとしか言いようがない。

 翌日は、
「十二日は別に変りたることも無之、唯朝より秀林院様の御機嫌、よろしからざるやうに見上候。総じて御機嫌のよろしからざる時にはわたくしどもへはもとより、与一郎様(忠興の子、忠隆《ただたか》)の奥様へもお小言やらお厭味やら仰せられ候間、誰もみな滅多にお側へは近づかぬことと致し居り候。けふも亦与一郎様の奥様へはお化粧のあまり濃すぎぬやう、「えそぽ物語」とやらの中の孔雀の話をお引き合ひに出され、長ながと御談義有之候よし、みなみなお気の毒に存じ上げ候。この奥様はお隣屋敷浮田中納言様の奥様の妹御に当らせられ、御利発とは少々申し兼ね候へども、御器量は如何《いか》なる名作の雛にも劣らぬほどに御座候。」
 この日は秀林院こと細川玉にとっての最後の誕生日の筈だが、比丘尼から石田三成の所に行くことを勧められ、とても誕生日を祝うような気分ではなかったと言うことなのだろう。
 秀林院が機嫌が悪い時は皆が側に近づかないようにしているのだが、子供の嫁に対しても小言を言っていて、みんな気の毒に思っていたと言い、その子供の妻に対しても全く遠慮がない。細川忠隆はこの時20歳。その妻である春香院こと細川千世は夫と同い年なので20歳の筈だが、糸は自分と年齢が近いと言うことからだろう。忠隆の妻である春香院こと細川千世に対しては親愛の情を持って書いている。
「えそぽ物語」というのは、イソップ物語のことであろう。この時代に既にイソップ物語が知られていたとは驚きだが、ガラシャというように秀林院はカトリックに帰依していたことから、カトリックの神父から話しを聞いていたのかも知れない。
 孔雀の話しというのは、孔雀が自身の羽の美しさを鶴に見せびらかして自慢をしたのだが、鶴が大空に舞い上がり、ついておいでと言ったが孔雀はとても鶴の真似は出来なかった。
 秀林院は、美しさよりも実用の方が大事だと、美しい息子の嫁に訓戒を垂れたと言うことのようだ。
 この直後に、有名な秀林院であるガラシャは、石田三成から関ヶ原の合戦の出陣の前に細川家が徳川につくのを阻止しようと言うことからであろう。石田三成の人質になることを比丘尼を通して再三要求されたのだが、秀林院は最終的に拒否をするという決断を下し、自害して果てる。この時に、前田利家の七女であった春香院は秀林院から美しいだけではダメだという訓戒を受けていた千世は隣家の姉がいる屋敷に逃げて、その後に実家の前田家に戻った。
 後からこのことを知らされた細川忠興は、自分の妻である秀林院が自決しているのに逃げるとは武士の妻として許されぬと言うことから息子の忠隆に妻との離縁を要求するのだが、忠隆はガラシャである母が自害の直前に千世に逃げるように言ったからだと言って離縁を拒んだことから、激怒した細川忠興は長男であった忠隆を勘当するということが起こるのだ。
 しかし、この糸という女が書いた覚え書きには、忠驍フ抗弁とは全く違うことが書かれている。

「秀林院様は霜より仔細を聞こし召され、直ちに与一郎様の奥様とお内談に相成り候。後に承り候へば、与一郎様の奥様にも御生害《ごしやうがい》をお勧めに相成り候よし、何ともお傷《いたは》しく存じ上げ候。」
 とある。秀林院は、春香院こと細川千世に対して、一緒に自害することを勧めていたのだ。その後に、
「秀林院様は梅を遣はされ、与一郎様の奥様をお召し遊ばされ候へども、はやいづこへお落ちなされ候や、お部屋は藻《も》ぬけのからと相成り居り候よし、わたくしどもみなみなおん悦び申し上げ候。なれども秀林院様にはおん憤り少からず、わたくしどもに御意なされ候は、生まれては山崎の合戦に太閤殿下と天下を争はれし惟任《これたふ》将軍光秀を父とたのみ、死しては「はらいそ」におはします「まりや」様を母とたのまんわれらに、末期の恥辱を与へ候こと、かへすがへすも奇怪なる平大名の娘と仰せられ候。その節のおんありさまのはしたなさ、今も目に見ゆる心地致し候。」
 要するに、春香院こと細川千世は秀林院が梅という女を使いにやって呼びに行った所、既に部屋はもぬけの殻で誰もいなかったのだが、このことに対して糸達は喜び安堵したのに対して、秀林院は「逃げるとは卑怯なり」と言うことで激怒し、私は平安朝の時代から続く名家土岐家の末裔である明智光秀の娘であるのに対して、千世はどこの馬の骨とも知れない平の大名家の娘に過ぎないことが明らかになったと言うようなことを言い、口を極めて罵ったのだろう。こうした秀林院の怒りにまかせた振る舞いに対して、糸という小娘は、いかにもはしたない振る舞いを行っていた、と言って秀林院を非難しているのである。勿論、この現場には忠興も忠隆も天下分け目の関ヶ原の合戦に備えていたためにいなかったのだが、関ヶ原の合戦の後に細川親子が戦地から戻ってきた時に、千世が逃げた顛末をお付きの女達から忠隆に言わせ、千世本人からも忠隆は聞いたのだろうが、秀林院が千世に向かって逃げろと言ったから逃げたというのは、糸の覚え書きを見る限り嘘だと言うことのようだ。
 細川忠興という人は、瞬間湯沸かし器のような男で、すぐにかっとなる性格だと言うことは子供なのだから知っているはずなのに、忠興からの千世との離縁の要求を拒んだのだが、忠隆が父親から勘当されても千世との離縁を拒んだと言うことは、余程千世という妻に魅力があったと言うことなのだろう。
 しかし、この後千世は最初に生んだ熊千代という男の子が幼くして死んだ後に子供を次々と産んだのだが、4人産んで4人とも女だった。おそらく世継ぎが生まれないと言うことから、夫婦の間で諍いが起こったのだろう。父親から勘当されて細川家の跡取りの地位を捨ててまで夫婦でいることに固執したはずなのに、忠隆は千世と離縁することになる。

 この糸という女の覚え書きは、明智玉、秀林院こと細川ガラシャが自決し、屋敷が炎に包まれるところで終わっている。











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