清貧の思想7(吉田兼好の徒然草)




2021.5.02.


 吉田兼好の死生観とその普遍性
「枕草子」と「徒然草」は江戸期を通じて文人の最も愛好した古典であったらしい。
 吉田兼好(弘安6?〜観応3以降・1283?〜1352以降)は、非常に複雑な人で1筋縄ではわりきれない。「徒然草」はあるところでは趣味を語り、世相を語り、道念を説き、いろいろな面を具えていて1つの決まった読み方は出来ない。その観察が多面的で、しかも鋭く、表現の力強いところがあって、日本では古来からこれを随筆の古典にしてきたのだ。その中でも最も人に働きかけたのは、
「若きにもよらず、強気にもよらず、思ひ懸けぬは死後なり。」(第137段)
 という、死すべき者としての人間の自覚を説く段々であったろうと思われる。

 死期(しご)は序(ついで)を待たず。死は、前よりしも来たらず、かねて後ろに迫(せま)られり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来(きた)る。沖の干潟遙(はる)かなれども、磯より潮の満(み)つるが如し(第155段)

 このような短い文章で、ノミで穿(うが)つように鋭く明快に、死というものが思いもかけずに襲いかかってくることを説く。
 徒然草の魅力は、いつ来るか知れぬ死の上に浮かぶ危うい時と認識し、だからと言って「一言芳談抄(いちげんほうだんしょう)」の坊さんたちのように「とく死なばや」と厭離穢土(けんせえど)をすすめるのではなく、そういう生であるからこそ、

 されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。(第93段)

 生きてある今のありがたさの自覚へと人を誘うところにある。たった1行の短文だが、この言葉は1度知ったら忘れられぬ力強さに満ちている。
「沖の干潟(はる)かなれども、磯より潮の満(み)つるが如し」と、死の訪れの予期しがたさ、不気味さを説く文章の鮮やかさがあるからこそ生へと目を向けさせる言葉が力強くひびくのである。
 生とは誠に危ういものであると説く人はいたけれど、このように生への喜びへと鮮やかに転換させた人はいなかった。そこに「徒然草」の人生論、死生論の斬新さがある。

 されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外(ほか)の楽しびを求め、この財(たから)を忘れて、危うく他の財を貪(むさぼ)るには、志(こころざし)満(みつる)事なし。生ける間(あいだ)生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理(ことわり)あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故(ゆえ)なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。もしまた、生死(しょうじ)の相(そう)にあづからずといはば、実(まこと)の理(ことわり)を得たりといふべし。(第93段)

 自分が生きて今存在しているという、これに勝る喜びがあろうか。死を憎むなら、その喜びをこそ日々確認し、生を楽しむべきである。それなのに愚かなる人々は、この人間の最高の楽しみを楽しまず、この宝を忘れて、財産だの名声だのというはかない宝ばかりを求め続けているから、心が満ち足りるということがないのだ。生きている間に生を楽しまないで居て、いざ死に際して死を恐れるのは道理にも合わぬ事では無いか。人が皆このようにほんとうに生きてある今を楽しまないのは、死を恐れないからである。いや、死を恐れないのでは無い。死の近いことを忘れているからに外ならない。
 人間にとっての最高の宝は財産でも名声でも地位でも無く、死の免れがたいことを日々自覚して、生きて今ある事を楽しむことだけだと、人を生へと励ますこの認識は、離俗を志す江戸の文人たちにとってどれほどの鼓舞となったか知れない。

 つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるる方(かた)なく、ただひとりあるのみにこそよけれ。
 世に従えば、心、外の塵に奪われて惑ひ易く、人に交じはれば、言葉、よその聞きに随(したが)ひて、さながら、心にあらず。人と戯れ、物に争ひ、一度(ひとたび)は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事なし。分別みだりに起こりて、得失止む時なし。惑いの上に酔へり。酔いの中(うち)に夢をなす。走りて急がわしく、ほれて忘れたる事、人皆かくの如し。
 未だ、まことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづ)かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。「生活・人事・伎能・学問等の諸縁(しょえん)を止めよ」とこそ、魔訶止観(まかしくわん)にも侍(はんべ)れ。(第75段)

 スケジュール表に予定をびっしり書き込んで、絶えず忙しく動き回っていないと生きた心地がしないような人の気が知れない。私に言わせれば、人間は他のことに心を紛らわされず、己ひとり居て心を見つめているのがいいのだ。
 世間並みに暮らそうとすれば、心は賭け事とか商談とか出世とか色事だとか、そんな外の塵に自分も心を奪われて惑いやすいし、人との交際を重視すれば、テレビだの新聞だのの意見や情報に引き回され、まるで自分が自分で無くなってしまう。楽しく付き合っていたかと思えばすぐに喧嘩をし、恨んだり悦(よろこ)んだりして切りが無く、心の平安など望むべくもない。ああすればとか、こうすればと考えて利害の関心から抜け出せない。まるで惑いの上に酔い、酔いの中で夢を見ているようなものだ。だが、世間を忙(せわ)しく走り回っている人を見ると、事に呆(ほう)けて肝心なことを忘れている点では人皆同じである。
 だから、まだ真の道は何かを知らずとも、仕事、人間関係、世間体などの諸縁を絶ちきって心を安らかにしておくのこそ、生を楽しむ態度だと言うべきである。魔訶止観にも、生活、人事、伎能、学問等の諸縁を止めよ、とあるではないか。
 兼好は、このように、世間のままに動いていては心の充実は得られない。世間並みの生から距離を取って己の心をしかと見つめよ、それこそ存命の喜びを楽しむことだ、と言うのである。

 蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きにあり、賤(いや)しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり、夕べに寝(い)ねて、朝(あした)に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪(むさぼ)り、利を求めて、止む時なし。
 身を養ひて、何事かを待つ。期(ご)する処、ただ、老いと死とにあり。その来たる事速(すみ)やかにして、念々の間に止(とど)まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。(第74段)

 吉田兼好は14世紀の文人だが、その書いたものがずっと読み継がれ、思想が伝えられて、現代人の心に響き合う。真実の認識には時代が無い。その時代を超えた普遍性を持つものこそが、文化の名に値する。

 600年以上もの昔に書かれたものなのに、言っていることに古くささが全く感じられないのには驚かされる。まさに、現代に当てはめても何の違和感も無いのだ。全くのところ、何年経とうが、いかに文化的な営みが変わり、科学が発展しようとも人の考えること、行っていることには大きな違いが無いと言うことなのだろう。












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