清貧の思想6(池大雅)




2021.3.11.


 清貧の思想には池大雅の逸話の話が載っているのだが、これは全く破天荒な人の話で、読んでいて楽しくなる。

 中にも奇なるは、石刻(せきこく)の十三経を得んとて年比(としごろ)心にかけしかば、たくはふる所の銭百貫に及べりしに、書買(しょこ)なほ售(うら)ず、嘆息して其銭を祇園の社に奉納す。時に御社修造のことあればなり。其時のさま、わらむしろの大なる袋に巴を書き(神輿の紋)、拾貫文づつ拾にして、門人とともに礼服を著し、青竹の棒もてさし荷(にな)へり。社司其名を掲げんとせしを固く辞す。されど誰となくてはあるべからずとて、玉瀾(ぎょくらん)としるせりき。

 石刻の十三経というものがどんなものかわたしにはわからないが、とにかく本屋でその本を見つけ、大いに気に入ったものの高くて買えない。そこで貧乏暮らしの中から何とか言い値の百貫文を貯えていざ買いに行ったところ、本屋は売らなかった。別の本には大雅が買いに行った時には1足違いで売れてしまっていたとあり、こちらの方がほんとうかも知れない。
 これからが大雅らしいのだが、本を買うために貯えたお金であるからそれがかなえられないのなら百貫の銭なぞに用は無いと、さっさと祇園社に献じてしまったと言うのだ。ムシロに巴の模様を描き、1つの袋に拾貫文ずついれたのを十箇門人と担いでいって、名も名乗らずに寄付したという。

 大雅の画技は若い頃から優れていたが、世に知られる事が無く、長い事貧乏暮らしがつづいた。だが、本人も妻の玉瀾もひたすら画境を深める事に専念し、身の貧なことなど少しも気にしなかった。およそ貪欲とか慳貪の反対の人で、金銭には恬淡(てんたん)無欲、生涯貧しい暮らしの中で絵画の世界に遊んだ。

 大雅かねて質素にして飾りを不求(もとめざる)ゆへ、費(ついえ)少なく暮らせり。或時(あるとき)祇園の葺修(ふしゅう)のことありて、門前の人人その分限に応じ其(その)費用を出さしむ。大雅もとより貧しきさまなれば、三百銭をあてり。大雅、妻とはかりて云う、ともに茶又は書画を以て若干の銭を得て、傍らなる押し入れに銭満(みつ)るといえども是を用いる急なし。用いること無くして蔵して置くも無益なれば、祇園の祠へ奉るに如(し)かずと、是を改めるに銭参百貫余なり。夫婦怡(よろこ)びて、自ら背負いて奉る。人々奇とせざるはなし。

 晩年になると大雅でも銭には困らなくなっていたのだろうが、収入が多くなっても暮らしぶりと、金銭を見ること恬淡(てんたん)たることは少しも変わらなかった。
 明和の頃には銭五貫文が金1両に値したと云うから、参百貫文といえば六十両(現在の価値にすると600万円くらいに相当する)の大金である。そんな大金がいつの間にか押し入れの中に貯まっていたのに気づいて、祇園社が割り当ててきたのは三百文だったけれど、押し入れにあるだけ全部背負っていって、綺麗に寄付してしまったのである。
 しかし、二人は粗末で小さな家に住んでいたらしく、東洋が初めて訪れた時に、見ると、8−9畳ほどの部屋に紙や絹が散らかり放題散らかっていて、それらをかきわけてでなければ座れぬほどであった。大雅も玉瀾も腰に銭四、五十文を挟んだままなので、東洋が怪(あや)しんで尋ねると、日用の物を買ったり、乞食に与えるためにいつもこうやっておくのだという。夫婦共に全く物にこだわらなかったことがこのことからもうかがえる。

 「逢原(ほうげん)紀聞」という本にはこうあるという。
 大雅嘗て淀侯(よどこう)の金屏風を書きけり。謝礼として使者来たるに、台所の入り口より反古(ほご)書物など取り散らしおきて、更に上がり所なし。反古を片寄せ、使者を通しけるに、謝儀(しゃぎ)として三十金を給ふ。大雅礼を述べて、その包みのまま床の上に起きたり、その夜盗(ぬすっと)、床の側の壁を切り抜きて、包み金を持ち去れり。翌朝、妻玉瀾、壁を切り抜きたるを見て、定めて盗の仕業ならん、昨日淀侯より給わりたる金はいづくへおき給ふやといふ。大雅更に驚く気色なく、、床の上におきたり。なくば盗の持ち去りたるならんといふ。門人ども来たり、この体を見て、先生何故にこの様に壁を切り抜き給ふやといえば、昨夜盗入りて、淀侯より謝儀に貰いたる金子を持ち去りたるぞなどいふ。門人の曰く、壁あの通りにて見苦し。繕(つくろ)い給へといえば、却って幸いなり。時今夏日(じこんかじつ)、涼風(りょうふう)を引くによし。また夜中小用に出るに戸を披(ひら)くの愁いなしといひしとぞ。

 大雅の暮らし向きと金銭感覚の恬淡さを示すエピソードだが、三十金と云えば、今のお金にして300−500万円もの価値のある大金だ。これを床に置いたまま放置しておいたというのも驚きだが、部屋が1つしかない家なのだから妻の玉瀾も当然夫がお金を受け取ったことを知らないはずが無い。現代の妻なら夫がお金を貰ったのを見て、使者が帰ったらすぐにどこかにしまうか、銀行に持って行くことだろう。これにたいして玉瀾は、夫が大金を床に置いたままにしているのを黙ってみているだけ、というこのお金に対する淡泊さ。夫婦そろって、信じられないくらいのお金というものに対する執着心のなさだ。

 大雅は、書画の謝儀を得れば、扇を開き出して受収して、封も切らずに、手をつけずに傍らの箱の内に打ち込めり。員数を見れば多少の欲心出でて悪(あ)しといひとなり。書画はわが天より授かりたる賜物(たまもの)なれば、貰いたるを米味噌の料にすべしとて、米味噌などの掛け取りに来る者へは傍らの箱を渡し、この内に天より給ひたる品あれば取りて行くべしといへば、商人箱を開きて金銭を出し、勘定をして去る。また溜まりたる頃に取りに来るべしといひしとぞ。かくの如くにして、金銭を手に取りしことなしといえり。

 大雅という人は、自分の書画のわざは天の与えた賜物である。欲があっては汚れると信じていたようなのだ。
 
 明和7年、大雅48歳の年の2月に木村兼葭堂(けんかどう)が大阪で書画会を催した時の逸話が伝えられている。
 兼葭堂主催の大書画会であるから京大坂の名士が多く集まったし、会の通知はむろん大雅にも届けられた。あいにくその日大雅は江州三井寺の円満院宮に召されて出かけていて留守で、帰宅した時には夜になっていた。玉瀾が通知を見せると、大雅はその足で大坂へ飛び立っていった。だが、あわてていたために筆箱を忘れてしまった。玉瀾が気づいて急いで後を追っかけ、ようやく伏見稲荷のあたりで追いついて筆箱を渡すと、大雅は「これはどなた様か存じませぬが、大きにお世話様でございます」と言い、玉瀾も何も言わずに帰ってきたというのである。

 勿論、このエピソードをそのまま受け止める人は稀だろう。いかなることがあろうとも例え夜で暗かったとしても玉瀾は夫の姿を認めて近寄っていったのだ。ただ、暗いので人違いの可能性もあったことから確認のために「失礼ですが、池大雅様でしょうか?」と問うたと思われる。これに対して大雅は「はい、そうです」と応じた。玉瀾はこれで夫であることの確信を得たことから「忘れ物よ」とでも言って筆箱を手渡したに違いないのである。
 大雅にしても、遠くから玉瀾が自分の夫と思われる人影が歩いているのがわかったのだから、声をかけられて振り向いた時には目の前に妻が立っているのに、その人影がいかに暗くて顔がよくわからなかったとしても自分の妻の姿であることに気づかないはずが無い。いかに夜道で暗くて目の前にいる人が誰かの区別がつかなかったとしても、もう、最初に声を聞いた時点で、自分の妻だと気づかないなどと言うことがあろう筈が無いのだ。
 目の前にいる人が自分の愛すべき女房であることは百も承知の上で、池大雅はわざと他人行儀な挨拶をしている。これにたいして玉瀾は「私よ!私!」などという野暮なことは言わずに、黙ってその場を立ち去って行ったのだが、このような対応からも玉瀾という女は、とてもお淑やかで賢い人だったと言うことがわかる。
 何も言わなくともお互いに以心伝心で、まさに、これこそお互いの全てを飲み込んだ者同士の夫婦という感がして、ほほえましい限りだ。

 大雅は若い頃のまだ世に知られていなかったころのことだが、一向に絵が売れないので扇子に絵を描いて祇園の境内で売っていたことがあった。売ると言っても境内の一隅に筵(むしろ)を敷いて、その上に扇子を並べておくだけのことなのだが、何日経っても全く売れない。そのときに祇園社に茶店を出していたのが百合女で、茶店は母の梶という女から引き継いだものであった。梶も娘の百合も風流の人であって、梶には「梶の葉」百合には「佐遊李葉(さゆりは)」と言う歌集がある。その百合女が大雅を見かねて何くれとなく親切にしてくれ、それから縁が生じ、結局は百合の娘である町を池無名、すなわち大雅に嫁がせることになったのだ。
 大雅は文人画を柳里恭(りゅうりきょう)や祇園南海に学び、そうとうの域に達しても無名では画で生きて行くことが出来ない。そこで扇子に絵を描いて近江の方に売りに行ったが全く売れず、帰りに瀬田の橋まで来た時に、売れぬものならせめて龍神に捧げてしまえと、扇子を全部川の中へ投げ入れてしまったというのである。
 玉瀾という人もまことにその人柄の慕わしい人であって、彼女が夫と共に暮らして少しもその貧乏を苦にせず、絵の世界にのみ遊ぶ人だった。玉瀾は、百合女の娘であって、また大雅の妻であるということだけでもなんとなく慕わしげな気がするが、その人品が高雅で、その筆墨のわざが精妙なのであるからなおさらである。
 玉瀾の真跡で、小泉氏所蔵の摺扇(しょうせん)であったもので、これは無造作に描き出した山水の絵だが、無限の興趣があった。絵の左上に大雅の筆で「泉臨香澗(門の内にある日が月)落(いずみはこうかんにのぞみておち)、峰入翠雲多(みねはすいうんにいりておおし)」という沈栓(木偏では無く人偏)期(ちんせんき)の句が記されており、その書もまた実に良い物であった。
 この摺扇は司馬江漢が所有していたもので、その箱に江漢の筆で「大雅書、玉瀾画」と認(したた)められ、ローマ字で江漢の名を記してあるばかりか、扇の裏面に「三浦侯の大夫九津見氏は俗に人呼んで唐人吉右衛門という風流の第一人者であったが、信州から京都に至っており、玉瀾女の茶店で扇を買い、それを持って大雅を訪ねて字を書いて貰った。そして江戸に来て自分にこれを贈ってくれたのである。大事に蔵することほとんど三十年になる。いま脇坂氏がこれを求めるので与える次第である。文化元年甲子暮、春波楼主人認」とある。

 池大雅のような貧しい奇人に娘を嫁がせようと思ったこと自体、現代では考えにくいことだが、娘は貧しい奇人である池大雅の元に嫁ぐことに不満を抱くどころか、完全に池大雅の分身になってしまっている。
 彼女がほんとうに金銭に恬淡だったのかは不明だが、少なくとも金銭に執着するような人物で無かったことは間違いの無いことだろう。もし、現代の女のようにお金お金と言うことでお金に強い執着心を持ったまま生きてきたような者が、池大雅のような貧しいだけでは無く、金銭に全く恬淡な人物の元に嫁ぐことを母に言われたとしたら、様々な理由を挙げて抵抗するだろうし、嫁いだとしても生活に必要な最低限の出費をするだけで、他に何も無いような生活に甘んじていられるはずが無いからだ。
 ほんとうにお金が無くてならまだしもだが、お金があるのに使わないで貧しい生活を続けている。そしてある程度のお金が貯まると、神社などに寄進をしてしまう。こんなことを現代のようにお金に執着心の強い女が耐えられるはずが無い。それこそ年がら年中不満の塊になって、夫である池大雅に不満を言い続け、結局は離縁と言うことになるのは必然だ。所が、玉瀾は全く夫のすることに異を唱えないばかりか、夫のすることに唯々諾々としたがっていた。そして、そこに不満のかけらも見いだせないのには驚くしか無い。
 世の中には似たもの夫婦という言葉があるが、池大雅と玉瀾ほどの似たもの夫婦も稀だろう。












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