清貧の思想5(良寛)




2021.2.11.


 一般にお金があることをよしとする風潮があるからだろうが、全ての価値がお金ではかられ、数字で表せぬ価値には目を向けられることがない。
 こうした風潮が現代の典型的な生き方だとすれば、良寛(1758〜1831本名は山本栄蔵)という人は全く違う生き方をした人で、生涯お金には無縁。住まうところは草深い草庵で、乞食同然の生活を続けた人だ。
 このような人が遙かな昔から伝記などに描かれ、学校の図書館の偉人伝全集にその名があったりする。私も子供の頃に図書館で読んだことがあるので、多くの人も読んで知っていることと思う。


生涯 身を立つるに懶(ものう)く
騰々(とうとう) 天真に任す
嚢中(のうちゅう) 三升の米
炉辺 一束の薪(たきぎ)
誰か問わん 迷悟の跡
何ぞ知らん 名利の塵
夜雨 草庵の裡(うち)
雙脚(そうきゃく) 等閑に伸ばす

 良寛の代表作と言われている詩だが、ちょっと考えてみればこんな暮らしは我々にはできるわけがない。

 立身出世だの、金儲けだの、そういうことに心を労するのが嫌で、全てを天のなすがままに任せて生きてきた。
 今自分には、この草庵の頭陀袋の中に托鉢でもらって来た米が三升あるだけ。
 そういう極限の不安な状態にあるのだが、これだけあれば十分、迷いだの悟りだのと言うことは知らん。まして名声だの利得などは問題外だ。
 私は夜の雨がしとしとと降る草庵の裡にあって、二本の足を伸ばして満ち足りている。

 これが詩の趣旨だが、良寛は無心にこのように言う。だが、我々凡人には、自身がこうした状況に置かれたら、到底このような達観した心境にはなれない。それにもかかわらずこの詩には見事な1つの境界(きょうがい)が示されていて、それが人々を引きつけるのだ。

生涯 身を立つるに懶(ものう)く
騰々(とうとう) 天真に任す

 立身出世など考えもせずに万事なるがままに任せてきたのだ。その結果が今の草庵の暮らしで、それに満足し、これ以上ない至福の心持ちでいるという。
 我々には決してまねは出来ないが、良寛の心境を想像することは出来る。
 飽食があたりまえの世の中に埋没した状態では、食のありがたみはわからない。常に飢餓すれすれの生活であるからこそ三升の米のあることがありがたく思えるのである。
 何も無いと言うことが常態である時に、人は物のあることに無情の満足と感謝の気持ちを抱くことになるのだろう。
 あるのが当然という状況であれば、ないことに大きな不満を感じるだろうが、いくらたくさんあってもありがたみは感じないだろう。
 良寛にしても大きな伽藍を構えた寺にいれば食べることにも困らないだろうし、寝るところにも困らなかったはずで、実際彼はそうした大きな寺にいたこともあったのだが、あえてすきま風がふんだんに入ってくる草深く狭い草庵に移り住んだのは、常に自身を欠乏の状態に置くことで、感謝の気持ちを持って生きるための工夫であったのかも知れない。
 そして貧しい草庵の暮らしぶりを歌った良寛の詩や和歌に、言いようもない優々たる心境が現れていることから、人々は引きつけられるのだろう。

「良寛禅師奇話」と言う本の冒頭にこうある。
 良寛禅師ハ常ニ黙々トシテ、動作閑雅、余有(あま)ルガ如シ。心広ケレバ体ユタカナリトハ、コノコトナラン。

 良寛という人は、孤独な一人暮らしをしていたばかりではなく、生来口数の少ない寡黙な人であったらしい。それでいて立ち居振る舞いはまことに閑雅なものがあって、ゆったりと内から溢れてくるものがあるようであった。心が自由でとらわれなければ体が豊かであるとはこれを言うのであろう、と言うのである。
 いかにも良寛という人の人となりが目に見える思いがする。
「良寛禅師奇話」を書き記したのは解良栄重(けらよししげ)と言う人だが、この人は良寛に私淑することの深かった人で、良寛という人から発する香気を良く書き留めている。
 良寛もまた解良の家に親しみ、時には2晩泊まりで泊まっていくこともあった。
 良寛がその家にいると言うだけで、しかもとくに説教などをしたり、詩や和歌の話を講釈するというわけでもないのに、家の中に和気が満ちるようだった。台所に来て火を焚くのを手伝ったり、奥座敷で座禅を組んだりして、ごく自然に振る舞っているだけなのだが、何でもない振る舞いに接し、炉辺で世間話をしているだけで、胸の内が清らかになってくるようだった、と言うのである。
 良寛が愛されたのは、草庵暮らしの乞食坊主だったにもかかわらず、簡素な生活にあって返って常人の及ばぬ高雅な心持ちのかぐわしい人柄だったのだ。
 良寛は詩を作り、和歌を詠む。書をよくする。その詩は詩人の作る専門家の詩ではなく、和歌は常套歌(じょうとうか)ではなく、書は書家の書ではなかった。どれもが良寛の内的生活を表現するためのものであって、専門家臭は1つもない。生活において、無所有を貫くのと同じく、全てはその行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、日々心を新たに充実させるための手立てなのだった。

 良寛は九州や四国にも渡ったことがあると言うが、ともかく諸国の名僧知識人を訪ね、自己の心境を深めるために永い諸国行脚の道についたものらしい。
 この頃の良寛についての記述が、江戸時代の近藤万丈(ばんじょう)という国学者の手記にある。

「自分の若い頃、土佐国に行った時、城下から三里ばかりこっちで雨も酷くなり、日も暮れた。道から2丁ほど右手の山の麓にみすぼらしい庵が見えたので、そこへ行って宿を請うと、色青く顔の痩せた坊さんが一人炉を囲んでいたが、食い物も風を防ぐ夜着も何も無いという。この坊さん始めに口をきいただけで、後は一言も物を言わず、座禅するでもなく、眠るでもなく、口の内に念仏を唱えるでもなく、こっちから話しかけてもただ微笑するばかりなので、こいつはてっきり気違いだと思って、その夜は炉端にごろ寝をしたが、明け方目覚めてみると、坊さんもやはり炉端に手枕をしてぐっすり寝込んでいた。明くる朝も雨が酷くて出かけられないので、今しばらく宿を貸してくださらぬかと言えば、いつなりともと答えてくれたのは、昨日に勝ってうれしかった。
 巳の刻過ぎ(正午に近い頃)に麦の粉を湯がいて食わせてくれた。その庵の中を見回すと、ただ木仏が1躯立っているのと、窓の下に小机を据えて本を2冊置いてあるほかは、何一つ蓄えを持っている様子もない。机の上の本を開いてみれば、唐本の「荘子」である。その中にこの坊さんの作と思われる詩を草書で書いたのが挟んであった。自分は漢詩は習わぬので上手下手はわからぬが、その草書は目を驚かすばかりに見事なものであった。そこで笈(おい・背中に背負う脚のついた箱)の中から扇子を2本取りだして、梅に鶯の絵と富士山の絵とに賛(さん)をもとめたところが、たちどころに筆を染めてくれた。その賛は忘れたが、富士の絵の賛のしまいに、「かくいう者は誰ぞ。越州(越後)の産良寛書す」とあったのを覚えている。」

 近藤万丈が相手を何者とも知らずに体験だけを書いているので、貴重な証言でも有り、また凄みがある。
 良寛は、その時自らに沈黙の行を課していたのであろうが、それにしてもその暮らしぶりの徹底した無一物ぶり、沈黙ぶりは凄まじい。
 旅人の目によってちらりと垣間見られた良寛の姿は、その向こうに当時の良寛の自らに課した修行の厳しさと、内的生活の充実を感じされるに十分である。
 良寛といえども大忍国仙に認可を受けられた後もひたすら、こういう己が心ををのみ凝視する修行を続けて、ようやく我々が知る良寛を作り上げていったのだ。
 外から見ればただの乞食坊主にしか見えないが、内にはゆったりと清らかな水が流れ、没弦琴の調べに聴き入っている透徹の人に。

静夜 草庵の裏(うち)
独り奏す 没弦琴
調べは風雲に入りて絶え
声は流れに和して深し
洋々 渓谷に盈(み)ち
颯々(さつさつ) 山林を渡る
耳聾漢(じろうかん)に非ざるよりは
誰か聞かん 奇声の音

 何も無い貧しい草庵にあって、良寛の心の中にはそういう音のない琴の音が響き、風に飛んで消え、流れと和して妙なる階調をなしていたのである。解良栄重のいう「神気内ニ充テ誘発ス」とは、そういう内的充実のことを言うのであろう。この没弦琴の調べは山中孤独の草庵だから響いたのであって、大伽藍に住む金襴の僧には決して聞こえない性質の音であろう。

                                  §

 1枚きりしか無い墨染めの衣を身にまとい、頭陀袋を下げて、鉢の子を手に良寛が里に出る。
 良寛は、人が汗して得た米を請うて生存している無用の存在であり、何の役にも立たない人だと思っていた者もいただろうが、大方の人は良寛が何者かを知っていて、敬愛し、その姿を見る事が出来た事に喜びを感じている。特に、子供らは、一見したところ馬鹿のような老僧に親しみ、彼が現れると歓声を上げて迎え、「良寛様、遊ぼうよ」と言って誘ったのである。そして良寛もその誘いに乗って、嬉々として、一切を忘れてともに鞠をついて長い春の日を遊び暮らした。
 彼にとっては、傍目(はため)にどう見えようが、そこには生の充足があり、それこそが禅宗の境地というものであったのだろう。 

 この宮の森の木下(こした)に子供らと遊ぶ春日になりにけらしも

 この宮は、初めに住んだ乙子(おとご)草庵の森だろうか、その木下で待ち受ける子供らと、鞠突き、隠れん坊、、おはじき、草相撲、何でも一緒に遊戯した良寛だった。「春日になりにけらしも」の下の句に、雪霰に閉じ込められていた越後の長い冬籠もりから解放された喜びがにじみ出ている。

 この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし
 霞立つながき春日を子供らと手鞠つきつつこの日暮らしつ

 これらの歌について良寛を敬愛する事の深かった歌人吉野秀雄は「どれもみなほのぼのと温かく、ふくよかに人を包みくる感触を受けるが、これすなわち良寛の人間的愛念の発露に他ならない。渾然としていかにも良寛の作、良寛以外の誰びとの作でも無いといいきることができる。」と言っている。まさに、これこそが良寛の世界であって、これらの歌を味わう時、我々の胸中に浮かぶ清らかで快い感情がすなわち良寛の世界なのであった。

 春陽(春の事)二月の初め
 物色 稍(やや)新鮮
 此の時 鉢孟(はつう)を持し
 得々 市廛(してん)に遊ぶ
 児童 忽ち我を見
 欣然(きんぜん) 相将(ひき)いて来る
 我を要す(ひきとめる)寺門の前
 我を携えて歩み遅々たり
 孟(う)を白石の上に放ち
 嚢(ふくろ)を緑樹の枝に掛け
 此(ここ)に百草を闘わし(草相撲をとり)
 此に鞠子(きゅうし)を打つ
 我 打てば 渠(かれ) 且(かつ)歌い
 我 歌えば 彼 之(これ)を打つ
 打ち去り 又打ち来って
 時刻の移るを知らず
 行人(こうじん) 我を顧みて咲(わら)い
 何に因(よ)ってか其れ斯くの如きと
 頭(こうべ)を低(た)れて伊(これ)に応えず
 道(い)い得ても也(また)何ぞ似ん
 箇中(こちゅう)の意を知らんと要(もと)むるも
 元来 祇(ただ) 這是(これこれ)のみ

 この詩は良寛の詩の中でも特に楽しげで、春を迎え子供らと遊ぶ喜びが軽快なリズムでうたわれている。
 良寛を見かけて駆け寄ってくる子供らと、その誘いに乗って嬉々として共に遊ぶ良寛と、その嬉戯のさまが目にみえるようである。
 行人というのは、仕事を終えて帰る農民だろうか。かねて良寛の子供らと遊びたわむれてばかりいるのを苦々しく見ていた人があえて良寛に問うのだ。おまえさまはいったいどんな根性でそんなことをしてそうやって遊び呆けていなさるのかね、と。それに対して良寛が何一つ弁明をせず申し訳なさそうにただ頭を垂れて黙っているのみというのがいい。言ったところで理解してもらえる事柄では無いのだ。
 あえて良寛の心の奥を問うてみるならば、彼はただ「這是(これこれ)のみ」と言うしかなかった。別の毬子という詩にはこうある。

 毬子
 袖裏(しゅうり)の(袖の中の)繍毬(しゅうきゅう) 値千金
 謂(おも)う 言(われ)は好手、等匹(とうひつ)なし(自分は毬を打つ名手で相手になるものがいない)と
 箇中の意旨(いし) もし相問わば
 一二三四五六七(ひふみよいむな)

 毬を打ってたのしむ自分の心中を尋ねられれば、自分はただ「一二三四五六七」と答えるしか無いと言うのだ。それはどういうことかとさらに問うた時に、良寛は貞心尼に答えている。
 貞心尼は良寛の晩年の生を彩る女性だが、賢い人で、良寛における毬つきをこう歌に詠んだ。
「師、常に手毬をもて遊び給ふとききて奉るとて、『これぞこの仏の道に遊びつつつくやつきせぬみ法(のり)なるらむ』貞心尼」
 これに対する良寛の返しが、
 つきてみよひふみよいむななやここのとを十(とを)とをさめてまたはじまるを

 理屈を言わずにともかくあなたも毬をついてみなさるがいい、ひふみよいむななやここのとを十、とついて収め、また新たにひふみよいむななやここのと、と始める。この無限の繰り返しこそ人生そのものであり、仏の道というものがあるならその中にしか無い事がわかるでありましょう。

 我々凡人がこのような事を言っても何も影響を与える事は出来ないだろうが、若い頃に厳しい修行を長年続けた良寛だからこそ、この言葉の持つ意味の深さがある。

 良寛の日々食べていたものは、現代の栄養学から考えたら悲惨としか言いようのないものであった筈なのだが、何しろ日に30品目食べなければならないだの炭水化物は出来るだけ摂らないようにしないといけないなどと言われている。所が、良寛の食事の殆どが托鉢によって得られた米や麦と言った典型的な炭水化物ばかりの食生活であったにもかかわらず、良寛は73歳という江戸時代としては驚異的な長命を得ることが出来た。
 良寛の世界を知ると、現代の食生活というのは何なのかとさえ思わせてくれる。

 






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