清貧の思想4(方丈記)




2020.11.1.


 人間の自然の感情としては、その日暮らしの貧乏人よりも大きな家屋敷を持った人の方が尊ばれ、人の生殺与奪を持った権力者が崇められる。
 お金をたっぷり持って裕福な暮らしをしているものが幸せで、何も持っていない貧乏人が不幸せかというと、必ずしもそうでも無いというのが人間社会のおもしろいところで、不思議さでもある。

 光悦とその母親の妙秀のように豊かな生活を享受しようと思えばいくらでも出来たのに、あえてそうした生活を避けるという人も昔はたくさんいた。
 豊かな家に生まれて何不自由の無い生活が保障されているのに、そうした豊かな生活をなげうって極貧の生活にあえて入る人がいる。その典型が仏陀だが、仏陀の教えとしては、人が真に幸福になるかならぬかは、心という日頃は欲望に目が行っているために曇らされているその世界に関わることだとされている。
 仏教は、現在ではすっかり堕落してしまって、葬式坊主と言われるくらいに僧侶は魂の救済能力を失った存在になってしまっているが、かつては、彼らは魂の救済者だった。
 十世紀に源信という僧が著した「往生要集」に、
 足ることを知らば貧といへども富(ふ)と名づくべし、財ありとも欲多ければこれを貧と名づく。
 このような考え方があると言うことは、当時この教えに初めて接した人々には目の醒めるような新鮮な発見だったことだろう。
 要するに、当時の人々は、僧侶によって欲望の支配する現世の価値の他に、もっと人間にとって大きな魂の救済に関わる一大世界があることに目を開かされた。
 この「心」と言うものの存在が信じられていた時代の古典に「方丈記」と言うものがある。
 NHKの番組でも時々取り上げられるものなので、こうした文章をおもしろいと感じることの出来るだけの頭を持った人であれば知っているとは思うが、鴨長明という歌人が書いた記録だ。
 長明は50歳の時に出家をした。そして、山中の草庵に住んだ時の記録が「方丈記」なのだ。
 長明は、この世で一番大事なのは心が安らかであるかどうかであると言い、もし、心安らかで無い状態で宮殿や楼閣に住んでいたとしてもむなしいばかりでしかない。逆に、草深い草庵にいたとしても心安らかであればその方がずっと良い、と言っている。
 しかし、こうは言っている一方で、鴨長明は最後まで世の中への未練、恨み、貪婪(どんらん)な好奇心や執着を捨てきれずにいた。その自我を捨てきれない自分に忠実に生きた人で、「方丈記」のおもしろさはその人間臭さにある。
 これを現代に移し替えてみれば、会社人間で仕事一筋で生きてきた人が、社内の人事や組織と衝突して会社を辞め、一念発起してどこか過疎の村に赴き、誰にも束縛されない山中の自給自足の貧しい暮らしを始めるようなものだ。
 そこで仏教の修行をすると言うことでもない。ただ、気ままに己一人の心身の自由と安心のために、世間一般の生活とはかけ離れた生き方をするのだ。
 ただ、この時に長明のように、
 タダ、仮ノ庵ノミ長閑(のど)ケクシテ、恐レナシ。
 と言いきれるかどうかだ。
 まあ、人によっては鴨長明独特の強がり、と受け取る向きもあるかも知れないが、仏教の教えの神髄のひとつに「空」というものがある。「色即是空」の「空」だが、「空」というものは、一言で言えば「こだわらない」と言うことなのだ。
 人にもお金にも財物にも無関心でいることが出来れば、心は平安でいられると言うことなのだが、勿論、口で言うは易しの典型だ。この「空」を我が物にするために僧は修行をするのだ。一例としては高野山がある。高野山では1200年以上もの間膨大な数の僧侶たちが女も財力も無関係の生活を営み続け、今も続いている。そして、鴨長明は不完全ながらも「空」を実践していたと言うことも出来るのだ。
 鴨長明のような自我の強い人物は、都にいたのでは人と人との交わりの中で心の平安を得ることが出来ないと言うことを自覚していたのだろう。
 人が幸福かどうかは外見ではわからない。人に拘束されない山中の貧しい暮らしにこそ真の平安があると鴨長明は言っている。
 夫(それ)、三界ハ只心ヒトツナリ。
 全世界は心ひとつの持ちよう如何(いかん)で価値が逆転する。自分は安らかな心が得られないのであれば宮殿や楼閣も望まぬ。今自分は乞食同様の身となったのであるが、山に帰ってここにいる時は世間の人が名利の世界にあくせくしているのを哀れむ気になる、と言っている。
 鴨長明という歌人は、方丈という最小限の空間に住みながら、そこで音楽を楽しみ、利得にあくせく奔走しないでいられる生活を誇りとしたのだ。また、そうした心境をよしとする人がいつの時代にもいたからこそ、方丈記は今日まで読み継がれてきたのだろう。

 鴨長明は、50歳の時に世を捨てて山中の方丈にわび住まいをしたのだが、彼は山に入ってそこで坊主のように仏道修行をしようとしたわけでは無かった。ただ、人里離れた所に住んで、誰にも拘束されることの無い自由に暮らそうとしただけだ。だから、方丈の住居にあるものとても良寛さんのような何も無いということでもなく、その場に適した暮らしを行ったと言うだけのことでしかない。

 南竹ノ簀子(すのこ)ヲ敷キ、ソノ西ニ閼伽棚(あかだな)ヲツクリ、北ニ寄セテ障子(仕切りのついたて)ヲ隔テテ阿弥陀ノ絵像ヲ安置シ、ソバニ普賢ヲ画(か)き、前ニ法花経(ほけきょう)ヲ置ケリ。東ノキハニ蕨ノモトロ(蕨のたけて柴などのようになったもの)ヲ敷キテ、夜ノ床トス。西南ニ竹ノ釣棚ヲカマエテ、クロキ皮籠三合(黒い革張りの竹籠三つ)ヲ置ケリ。スナワチ、和歌・管弦・往生要集ゴトキノ抄物(セウモツ)ヲ入レタリ。カタワラニ琴・琵琶各一張ヲ立ツ。イワユル折琴・継琵琶(つぎびわ)、コレ他。仮ノ庵ノ有様、カクノ事(ごと)シ。
 自身が住んでいる草庵のようすを、このように事細かに記すというのは、長明としては自慢したい気持ちもあったのかも知れない。
 同じ草庵と言っても良寛さんの何も無い草庵とは全く違うわけで、修行僧の草庵とはこれほどまでに違うのだ。
 しかしながら、仏典も仏像もしっかりとある。楽しみのための小道具としては、和歌や管弦・往生要集の本ばかりで、琴も琵琶もある。まさに、風流人のわび住まいと言ったところだ。
 そして彼は、近くにいる山守りの10歳の子を伴って、山歩きをして楽しんでいた。
 今なら、他人の子供を勝手に連れ出して山歩きなどをしようものなら、すぐに警察に通報されて逮捕されてしまうだろうが、こういう状況になったのはマスコミの悪影響そのもので、マスコミなど存在しなかった自由奔放な時代だったからこそ出来たことだとも言えるだろう。
 茅(ちがや)の芽穂を引き抜き、イワナシの実を採り、ヌカゴをもぎ、芹を摘み、食料の足しにした。
 夜が静かなら窓の月に知友を偲び、琴を奏でたりした。孤独だが、気ままな、貧しいが自由な自分一人の生を送ったのだ。
 良寛さんのような暮らしぶりとは全く違うが、これも草庵の生活に他ならない。

 鴨長明は、大弐資道(だいにのすけみち)という琵琶の名手のことを書いている。この人は毎日持仏堂に入っても世間一般人のように祈りをしないで、ただ琵琶の曲を弾いて極楽に廻向(えこう)していたと、その変わった振る舞いを書き、このように注釈をつけている。
「中にも数奇というは、人との交わりを好まず、身のしづめるをも愁へず、花の咲き散るを哀れみ、月の出入りを思うにつけて常に心をすまして、世の濁りにしまぬを事とすれば、おのづから生滅のことわりも顕(あらわ)れ、名利の余執つきぬべし。これ出離解脱の門出に待るべし。」
 数奇というのは定義しようとすれば難しいことらしいが、単純に俗心を捨てて風雅に心を遊ばせること、詩歌管弦を好くということとするなら、それもまた名利を脱し、心を救う手立てになるというのだ。
 そういう数奇の典型的な人物として、「永秀法師の数奇な事」という話がある。
「八幡別当頼清(よりきよ)が遠流(おんる)にて、永秀法師と言うもの有りけり。家貧しくて、心すけりける。夜昼笛を吹くより他の事なし。」
 この男、昼も夜も笛を吹いてばかりいたので、隣に住んでいた者はうるさくてならぬと去ってしまい、それからは付き合う人とていなくなったが一向に気にもしなかった。酷く貧しい暮らしをしていたけれども、物乞いなどに落ちぶれた行為はしなかったから、卑しむ人もいなかった。
 この永秀の貧乏暮らしの様子を頼清が耳にして、哀れに思い、使いをやって、
「なぜなにも言ってこないのか。困っているのであれば、縁の無い人でさえ何かにつけ頼ってくるものを、そちは身寄りの者では無いか、疎くおぼされるな、頼み事があるなら何でも言ってこられよ。」
 と伝えたところ、永秀は、
「これはこれは恐れ多い事であります。前々から申し上げようと思いながら、この身の見苦しさに、かつは怖れかつは憚(はばか)って罷(まか)り出(いで)かねておりました。実は、深くお願いしたいことがあるのです。すぐ参ってそれを申し上げましょう。」
 ある日の夕方に永秀がやってきた。
「願いとは何事ですか」と尋ねると、
「こちらでは筑紫に御領を多くお持ちでございますから、あちこちの漢竹で作った笛の良い物を1つ取り寄せて頂きたいのでございます。」
 頼清は、きっと所領などを望むものと思って身構えていたところ意外なものだったので、哀れを覚えた頼清が答えた。 
「そのような願いなどいとたやすいことじゃ。直ちに探し求めて差し上げよう。その他に願う事はありませぬのか。月々暮らしていくのも大変でありましょうに、暮らしごとで望みはありませぬか。」
「御志ありがたく存じます。しかし、さようなことは一向に気にかかりませぬ。また朝夕の食事のことは、その時々のあるものにまかせ、なんとかやってゆけます。」
 これこそほんとうの数奇者というのであろうと、その心持ちが哀れにもまたありがたいものにも思われ、早速笛を探し求めて送ってやったのであった。そして永秀はそうはいっていたものの実際には酷く困っているだろうと察して、月々の食料や費用など細々としたものを送ってやると、永秀は八幡の楽人などを呼び集めて酒を飲ませ、日暮らし共に楽を奏でて遊んでばかりいる。お金がなくなるとまたただ笛を吹いて明け暮らしているという有様であった。
 こうしたことから永秀は、のちに並びない名人上手になったのである。
 このどこが一体発心とかかわるのかと疑問に思う向きもあろうが、長明にすれば、このように笛という利得とも栄養ともかかわりのない無用のわざに、ただそれだけが好きだという一事によってのめり込む、寝食を忘れて夢中になるというその心根こそがなによりも尊いものに思われたのだろう。現世の栄誉利得とはなれて別乾坤(べつけんこん)に遊ぶ心は、極楽に近いと感じていたのだ。

 人は、自然のままに放っておけば、物がほしい、金がほしい。地位がほしいと、あればあるでさらに多い所有を求める。欲望には限りが無く、権力のある者はさらに権力を、富裕なる者はさらに金銀を欲してやまない。
 しかし、現実にある土地や富や資源には限りが有り、権力と権力は両立しない。欲望のままに振る舞い続ければ、この世は争いの地獄になるしか無いという認識から諸悪の根源を欲望にあると見て、平安を得るためには欲望を断てと教えたのが宗教であった。
 永秀の心根や動悸はそうしたものとは違っているが、音楽にのみ熱中して他の欲望を捨て去ってしまったところが、結果として仏教の道者と似ているのである。






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